京舞篠塚流とは
初代篠塚文三郎は京都四条北側芝居亀屋粂之丞(くめのじょう)座の振付師亀谷文三の子と言われています。
文化・文政年間に活躍した上方歌舞伎の大立者、三世中村歌右衛門に振り付けの才能を認められ、その引き立てで振付師に転身した。やがて舞の家元として篠塚流を樹立。
その流儀は、「手を伸ばさばあらん限り、足を伸ばすのなら伸びる限り」と云ったと云います。
天保7年(1836年)には、中村歌右衛門より中村梅扇の名を受け、後に篠塚梅扇と名乗るようになりました。実子に二代目を譲り、弘化2年(1845年)に没しました。
三代目の時代に都おどりと同様に、鴨川おどりも発足しましたが、この振付を担当しました。
しかしその後不運が重なり、篠塚流は三代目以後は一時断絶の危機にありました。
この危機の中、昭和に入って幼少のころから篠塚流の舞を習ってきた島一網が昭和38年(1963)年に五代目を襲名しました。その後、舞の会を披露し、海外でも公演を行うなど、大きな変化を遂げてきました。そんな五代目が記したお言葉に以下のようなものがあります。
「ああしなさい、こうしなさい」という言葉は遂に一度も叔母の口から聞かされたことはありませんが、不思議な縁で私が京地唄とゆかりの京舞篠塚流伝承という仕事にうちこめますのもあの芸に対する熱意と努力と多くの人にかけたおおらかなやさしい愛と真心を多少なりとも受けついでいるおかけではないかと思います。 「芸に生きるものはお金の事を考えたらあかんえ」と教訓めいた言葉を時折いっていたということを叔母の死後母からはじめてきかされましたが、質素な生活であっても、豊かな心を失わなかった京女の一生は残されたかたみの琴と共に、いつまでも私の心の琴線にふれて、数々の名曲を伝えてくれるように思われてなりません。
篠塚梅扇(1987)『もう一つの京舞』p.17.18
この「質素ながらも豊かな心を失わない」という心構えは今、五代目の後を継ぎ 六代目篠塚梅扇家元 にも脈々と受け継がれ、次の世代へ伝えられています。